白井市誕生までの軌跡

原始から白井町の誕生まで

野馬駆ける緑の大地は歴史を彩りながら、やがて大きく移り変わっていく

 その昔、広大な馬牧を広げ、江戸幕府の軍馬供給地として重要な役割を担ったといわれる白井。銚子から江戸への鮮魚輸送での鮮魚道(なまみち)としても注目されました。明治時代になると馬牧が開墾されるとともに村の合併を繰り返し、やがて白井町が誕生します。

 

原始・古代

手賀沼・神崎川沿いの台地上に残る遺跡

 かつては海底であったところが約5万年前からの最終氷期に陸地化が進み、そこに火山灰が堆積、白井の地を含む下総台地が誕生したといわれています。縄文時代には海進により、千葉県北部から茨城県南部まで「古鬼怒湾」という内海となり、手賀沼や印旛沼はその入り江の一部でした。豊かな水と肥沃な土地に恵まれた白井の地には、古くから人々の営みがあったことが知られ、手賀沼や神崎川沿いの台地上にある縄文から古墳時代のムラの跡からは石器や土器が、平塚地区の古墳からは直刀や耳飾りなどの副葬品が出土しています。奈良・平安時代になると白井は下総国に含まれ、そのころのものと思われるムラの跡もいくつか発見されています。

縄文時代の住居跡

縄文時代の住居跡

出土した縄文土器

出土した縄文土器

中世

鎌倉幕府の成立を助けた千葉氏の支配下に

白井を含む下総国は、鎌倉時代の一時期を除き中世期には千葉氏の配下となりました。そのころ、千葉氏の軍馬用の牧が白井を含む小金原周辺にあったともいわれ、当地は重視されていたものと思われます。鎌倉時代のものと思われる古文書には平塚郷や富ヶ谷郷の地名があり、このころに現在の白井の地区の基となるムラが誕生しつつあったと考えられます。

 

時代のコラム 「関東の名族 千葉氏武士団」

関東の名族、千葉氏武士団。千葉氏は平安時代末期から戦国時代末期まで、下総国や上総国の一部を支配した関東の名族。武士団として源平合戦などに参加し、鎌倉幕府創設にも大きな役割を果たしました。領地は上総国・下総国を中心に陸奥など全国20数カ所に及んだこともあり、房総地方の政治・経済・文化の発展に大きく貢献しました。

 

近世(江戸時代)

江戸の台所を賄う輸送路としてにぎわう鮮魚道(なまみち)

江戸時代になると、利根川を利用して海産物を銚子から江戸へと運ぶ道が整備され、白井の地はこうした海産物交易において重要な役目を担い始めます。木下河岸で陸揚げされ白井経由で行徳へと向かう木下道(行徳道)、手賀沼に入り平塚や富塚などを経て松戸へと向かう松戸道などは、新鮮な海産物が運ばれるため鮮魚道とも呼ばれ、多くの旅人たちも行き交ってとてもにぎわいました。

江戸へ向かう鮮魚道

江戸へ向かう鮮魚道

 

幕府の重要な馬牧地帯として

白井一帯が江戸幕府直轄の天領や旗本の領地となり、幕府によって軍備が強化されていくと、馬はさらに重要なものになっていきます。当時、下総には野馬の放牧場である牧として小金牧や佐倉牧が設けられました。白井の十余一地区や冨士地区は小金牧の一部として牧士に管理されていました。冨士地区には牧の境界や内部の仕切りを目的として築かれた野馬除土手が今も残されています。代々牧士を勤めた富塚の川上家には、牧士の衣服や馬具、武具などが残されており、これらは県の文化財に指定されています。

野馬捕りをしている牧の風景(「印西牧場之真景図」部分)

野馬捕りをしている牧の風景(「印西牧場之真景図」部分)

 

近代(明治~大正時代)

下総県から千葉県へ

明治元年、白井は下総県に属し、その後、管轄が葛飾県、佐倉藩、印旛県、そして明治6年に千葉県へと変わりました。

 

白井村谷清村組合村

政府による地方自治制度の改革が行われ、各地で自治体の分合が始まりました。白井でも同様に明治11年、郡区町村編制法時に白井復連合村が誕生し、明治17年の連合村の編成替えを経て、明治22年市制町村制時に白井村谷清村組合村が誕生しました。 白井村の村名は現在の白井の中で、当時、白井橋本村が一番知られている地名であったこと、その白井橋本村の通称が白井であり、それを踏襲したといわれています。

 

単独白井村誕生

大正2年に白井谷清組合村が廃止され、谷清村は新編成の永治村と合併します。 この時、人口4,630人、654戸からなる単独の白井村が誕生します。村長には前組合村の村長であった川上英太郎が就任することになりました。大正13 年には新庁舎が根字下郷谷に建設されます。

大正13年当時の白井村役場

大正13年当時の白井村役場

 

近現代(昭和~町誕生)

白井第一、第二小学校の創立

昭和11年、白井小学校と根小学校とが統合し、第一小学校が誕生します。新校舎は根字上人塚に総工費4万余円をかけて建設されました。同時に富塚小学校と名内小学校も統合し、第二小学校となります。こちらの小学校は総工費2万余円で中字鶴食に建てられました。

白井第一小学校

白井第一小学校

白井第二小学校

白井第二小学校

時代のコラム 初めての給食

第一小学校は昭和35年、第二小学校は昭和38年に学校給食が始まりました。昼食時になると高学年の児童が交代で配膳。現代のように恵まれたメニューとはいえませんが、児童がみな同じ食事を取れるようになり父母もひと安心。

学校給食の様子

給食風景

 

新白井村成る

昭和28年、市町村合併促進法が制定されます。昭和29年、白井村に永治村の一部(谷田、清戸、平塚、十余一)が編入合併されることが両村議会で満場一致で議決され、新白井村が発足します。

 

時代のコラム「白井・永治村合併時の人口と戸数(昭和29年12月1日調)」

白井・永治村合併時の人口と戸数
旧村名 総人口数 人口(男) 人口(女) 戸数
白井 6,450 3,211 3,239 1,071
永治 2,056 1,013 1,043 308
8,506 4,224 4,282 1,379

 

国民健康保険組合と村立病院の発足

昭和18年、村長五十嵐善太郎らにより白井の国民健康保険事業が発起されます。昭和22年、村長石橋源四郎により白井村国民健康保険組合として再出発、昭和24年、直営の白井組合病院が落成。昭和32年、これまでの国民健康保険組合は村営に移管され、旧白井組合病院は白井村国民健康保険病院と名を改め村立病院となります。

白井村国民健康保険病院

白井村国民健康保険病院

 

町誕生へ

昭和39年9月、人口8,321人の白井町が誕生。初代町長として今井孫四郎が就任し、総工費2,232万円をかけて役場新庁舎が建設されます。翌年には旧役場を改装し、白井町公民館が誕生します。

 

白井の移り変わり[明治以降の合併系図]

1868年(明治元年)白井復連合村

1868年(明治元年)白井復連合村

1878年(明治11年)白井復連合村

1878年(明治11年)白井復連合村

1884年(明治17年)白井橋本村外六ヶ村連合村

1884年(明治17年)白井橋本村外六ヶ村連合村

1889年(明治22年)白井村谷清村組合村

1889年(明治22年)白井村谷清村組合村

1913年(大正2年)白井村

1913年(大正2年)白井村

1954年(昭和29年)合併白井村

白井村 1954年(昭和29年)合併白井村
1964年(昭和39年)町制施行
2001年(平成13年)市制施行

町から市誕生そして未来へ

緑豊かな自然環境と加速する都市化、バランスのとれたまちづくりを目指して

工業団地への企業誘致、千葉ニュータウンの開発、北総開発鉄道線(現、北総線)の開通などにより白井は目覚ましい発展を遂げます。梨の生産量も日本屈指となり、梨ブランデーの生産も始まりました。そして人口が5万人を突破。市制への移行要件がすべて満たされ、平成13年4月、白井市が誕生しました。

 

白井町誕生

東京オリンピック開催の年に白井町は産声を上げる

白井村誕生から51年の歳月が過ぎた昭和39年9月1日、白井が町として新たなスタートをきりました。この時の人口は8,321人。初代町長に今井孫四郎、町議長に伊藤茂助が就任しました。この年は東京オリンピックが開催されるなど、日本中が沸き返った年でもありました。同年、役場の新庁舎も落成。翌年には商工会や農協同組合が発足します。

 

工業団地への企業誘致

工業団地の重要性にいち早く着目

昭和42年、産業経済の活性化を目指し中地区に第一工業団地の造成が完了、20余社が操業を開始します。昭和49年には第二工業団地の造成も完了。昭和53年の時点で、周辺の工場も含め約100社が操業するようになります。平成8年度には町製造品出荷額が1,087億円となり県内町村で最高水準となります。進出企業間の交流も活発化し、研修会や親睦行事なども盛んに行われるようになりました。

白井第一工業団地

白井第一工業団地

 

広がる交通網

国道16号線の開通

白井の主要道路として古くから県道市川印西線(木下街道)がありますが、昭和45年に国道16号白井・千葉間が、昭和49年には白井・野田間が開通。首都圏の大動脈として機能するこの道路の開通によって、工業団地への企業誘致が促進され、また柏・千葉方面への交通も便利になりました。

 

バス路線の広がり

白井ではバスが重要な交通手段となっていましたが、昭和54年の鉄道開通により状況は次第に変わっていきます。路線バスは新規路線ができ、白井駅、西白井駅へ運行するようになるなど次第に利便性が向上しました。また平成10年に役場などの公共施設の利用や日常生活の利便性を考慮し、町内各地を巡る循環バス「ナッシー号」を試験運行し、平成12年から本格運行を開始しました。

 

時代のコラム「道の愛称づくり」

平成5年、親しみと潤いある道づくりを推進するため、町が白井の道路の愛称を公募。住民の皆さんから歴史やロマンが感じられるさまざまな案が寄せられ、白井町道路愛称づくり事業委員会の選考により、4つの路線について「河原子街道」「カンナ街道」「神々廻・船尾街道」「風間街道」と愛称が付けられました。

 

北総開発鉄道の開通

北総地域の新しい足として

北総開発鉄道は千葉ニュータウンの首都圏通勤者の足として計画され、千葉ニュータウン西白井地区・白井地区の入居が始まった昭和54年に暫定的に新京成へ乗り入れ、松戸駅まで運行する小室・北初富間が開通。千葉ニュータウン中央地区への入居が始まった昭和59年には、住宅・都市整備公団鉄道千葉ニュータウン線(現、北総線)小室・千葉ニュータウン中央間も開通します。

通勤・通学時の白井駅

通勤・通学時の白井駅

 

念願の全線開通へ向けて

昭和58年、北総開発鉄道(現、北総鉄道)小室・京成高砂間の工事が始まり、着工から8年後の平成3年についに全線が完成。地下鉄への乗り入れで白井から日本橋まで48分の近さとなりました。その後、平成7年に印西牧の原まで、平成12年に印旛日本医大までが開通し、北総開発鉄道は都心と北総地域を結ぶ交通機関として一層重要なものとなりました。

千葉ニュータウンと北総鉄道

千葉ニュータウンと北総鉄道

 

千葉ニュータウンの開発

白井の人口の伸び率全国No.1を記録

総面積1,933ヘクタールに及ぶ千葉ニュータウン事業が始まったのは、昭和44年のこと。昭和54年には千葉ニュータウンの6つのエリアのうち西白井駅圏、白井駅圏の入居が始まります。これを契機に白井の人口も急激に増加、商店街や銀行、郵便局、そして緑豊かな公園や遊歩道なども整備されていきます。

白井の人口推移

白井の人口推移

千葉ニュータウン

千葉ニュータウン

文化センターの開設

まちの文化のシンボルとして

平成6年、町制30周年を記念して文化センターが開館。この文化センターは文化会館、移動図書館を備えた図書館(移動図書館は平成15年に廃止)、郷土史料館、プラネタリウムからなり、鑑賞の場として、また生涯学習やコミュニティー活動の拠点として幅広く利用されるようになります。

文化センター

文化センター

 

環境のまち白井へ

日本の自治体で初めてISO14001を取得

白井は平成7年度を環境元年とし、平成8年度から「環境共生のまちづくり」を進め、環境保全活動を始めます。平成10年には全国の自治体に先駆けてISO14001を認証取得。再生紙や低公害車の利用促進、ごみ分別の徹底、節電、地下水の水質監視などに取り組み、着実に成果を上げています。

文化センター

時代のコラム「公害をパトロールする電気自動車」

公害をパトロールする電気自動車平成8年、環境に優しいまちづくりを目指し環境パトロール車「クリーンしろいそよかぜ号」が購入されました。大気汚染防止などの公害パトロールを行いながら白井各地を巡りますが、この車も環境に優しい低公害の電気自動車です

「そよかぜ号」

「そよかぜ号」

 

市制施行へ

白井市誕生

平成9年9月に白井の人口が5万人を突破。平成11年に行った住民へのアンケート調査の結果を基に市制への準備が進められます。平成12年、国勢調査での人口が5万人を超えたことで市制施行の要件はすべて満たされ、平成13年4月1日に白井市が誕生、初代市長に中村教彰、市議会議長に川上誠一が就任し新たな幕が開きました。

 

周辺市町村との合併協議会

合併特例法により平成15年白井は単独と合併を検討するため印西市・白井市・印旛村・本埜村合併協議会を設立、合併に関する協議を行っています。新市「北総市」について協議終了後、市民参加のまちしろいでは市民の意思を確認する市町村合併に関する住民投票を行いました。結果、投票率68.02パーセント、反対が有効投票数の約7割となったことなどを受け、単独で行政運営を行うこととしました。

 

市民と築くまちしろいの実現

白井は市民とともに築きあげてきた、そしてこれからも市民とともに築いていくまちです。平成16年にまちづくり条例や市民参加条例を施行し、より市民の参加しやすい行政となりました。

 

この記事に関するお問い合わせ先

総務部 秘書課
〒270-1492 千葉県白井市復1123番地
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